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広島高等裁判所 昭和31年(う)330号 判決 1957年3月25日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

弁護人江島晴夫の控訴の趣意は記録編綴の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

弁護人の論旨第二点について。

所論は事実誤認を主張するのである。原判決は、「被告人は昭和三〇年四月八日午後七時過頃呉市清水通三丁目八八番地所在の被告人の自宅に、それまで未知の間柄であつた公安調査官垣野内憲爾(当時四八年)の来訪を受け、同人の求めにより共に外出し、右被告人自宅附近の湯舟橋に至り相共に、日没時にて薄暗くなりつつあるなかを、同所より更に宮原通に通ずる通称上道路を並んで歩いている時、右垣野内憲爾が被告人の要求に応じて自分の身分証明書を示し、被告人に対し、被告人の属する日本共産党の資料及び情報の提供方について協力を求め且つ報酬も差出す旨申向けたので、被告人は右垣野内憲爾の申出が気にさわつていた折柄、偶々上道路右側(前記湯舟橋より西南約二百米の地点)にある同僚の党員岡本一彦方附近まで来ていたので、突嗟に同人を呼び出し、共に右垣野内憲爾をいぢめてやろうと思い、突如大声で「岡本、岡本」と二、三回呼んだところ、右垣野内憲爾が、これに驚いて、身の不安を感じ、あわてて急にその場を逃がれようとして帰りかけたので、被告人は同人の左腕附近を捕えたが、同人がこれを振り切つて、前記道路上を元来た方向(湯舟橋方面)に向つて逃走したので、被告人は右垣野内憲爾を捕えて同人の氏名を確認しようと、直に同人を追跡し始め相共に全速力で走り、前記岡本方より約百十米位来た箇所で、道は元来た湯舟橋に通ずる道路と、万年寺へ向う近道とに分れており、後者の近道は右分岐点より約十五度の下り勾配となり且つ十米下つた処で約百十五度の急カーブをなして右曲りしておるのであるが、右垣野内憲爾は右後者の近道を選んで逃走し、被告人は尚も同人を追跡した結果右垣野内憲爾をして自分の走力の惰性のため、右急カーブをなす道路に沿うて右に廻ることができず、遂に右道路左側の同市清水通三丁目二十八番地池田数一方横の高さ約三米の崖下に顛落するに至らしめ、因て同人に対し治療四ヶ月を要する左上膊骨頭亀裂骨折、第五腰推脱臼、右第二、三、四蹠骨骨折、左外踝骨折の傷害を負わしめたものである。」との事実を認定しているのであつてその挙示する証拠によれば右外形的事実は認めることができるのである。

而して本件はもともと「被告人は垣野内憲爾を捕えるべく追跡し池田数一方手前十米附近道路上で右垣野内に追いついた際、いきなり同人の背部を手でつきとばしたが、その衝撃により、折柄約三十度の下り勾配を全速力で疾走しつつあつた垣野内が均衡を失い自己の走力の惰性を制しきれなくなつた結果、遂に同人をして左側崖下に顛落するに至らしめ」たものとして起訴されたものであるところ、原審は審理の末「被告人が垣野内の背部を手でつきとばした」との点について証明なきものと認めながら、被告人が垣野内を捕えようとして全速力で追跡した行為が同人に対する暴行であると判断し有罪判決をなしたものであることは記録並びに原判決に徴し明らかである。

もとより他人を追跡する場合においても、その目的態様の如何によつては、追跡行為そのものが暴行に該当することもあり得るが、本件において原判決は追跡の動機態様を「被告人は垣野内を捕えて同人の氏名等を確認しようと直ちに同人を追跡し始め、相共に全速力で走つた」旨認定し、その末尾「弁護人の主張に対する判断等」の項において、被告人が垣野内を逮捕する正当な事由がないのに拘らず、同人を捕えようとして逃げる同人を全速力で追いかけた行為が暴行にあたると説示しているのである。なるほど被告人は原審公判廷において「垣野内を掴えて同人の氏名等を確認しようと思つて追跡した」旨供述し、被告人の検察官に対する供述調書中にも略同旨の供述記載があるが、被告人が垣野内を追跡した真意並びにその不法性の有無については、被告人が述べた「掴える」或は「捕える」等の片言隻語に捉われることなく、本件の全経過によつてこれを判断すべきであるところ、証拠に徴すると被告人は原判示日時曽て一面の識もない垣野内憲爾の来訪を受け同人の意図、真意等知らないまま、その求めにより外出歩行中、同人より公安調査官であるその身分を打ち明けられた上、報酬と引かえに被告人の所属する日本共産党に関する資料及び情報等の提供方つまりスパイ的行為を要望されたので心外且つ非道と思惟し垣野内に対し強い反感と不快の念を懐いたが、偶々同僚の党員岡本一彦方附近に差蒐つた際、岡本を呼び出し同人の面前で垣野内の右不当な要望を拒否論難しようと突嗟に思いつき、大声で「岡本、岡本」と二、三回呼んだところ、垣野内において自己の企図が失敗に帰したものと判断すると同時に身の不安を感じ、あわてて被告人の手を振り切つて逃走したので、被告人は垣野内の停止を求めその氏名身分等を確認しようとして下駄履きのまま全速力で同人を追走したところ、垣野内が原判示経過で崖下に顛落するに至つたものであり、相ついで現場に到達した被告人は間もなく垣野内を発見し、同人の負傷の程度等知らずして身分証明書の提示を求め且つ同人の前示要望を難詰した末、垣野内に乞われるまま好意的に同人を病院に連行し治療を受けさせたものであることが認められる。(証人垣野内憲爾の証言中「逃走中被告人に背中を突かれた」との部分を信用しないことは原審と同様である。以上の経過で明らかなように、被告人が垣野内に対し直接暴行を加え又は加えようとした事跡は認められないのであつて、共産党員である被告人が垣野内の停止を求め同人を難詰しその身分を確認しようとした企図心境は垣野内のなした行為との対照上一応首肯し得るところでありさして非難に値しないものと解すべく、結局問題は被告人が逮捕に相当するような強力な有形力を行使する意図で追跡したか否かにあるというべきところ、原審並びに当審で取調べた全証拠及びこれによつて認められる前段説示の経過に徴してみても、被告人が刑法にいわゆる逮捕に相当するような強力違法な有形力を行使する意図であつたと認めることはできない。してみれば被告人が自己のもとを立去ろうとして逃走する垣野内を追跡した行為はもとより行過ぎで不当ではあるが、叙上の如く暴行の意思を認め難いのみでなくその行為の態様もいまだ処罰の対象たる暴行の程度には達していないものと解すべく、従つて右行為が逮捕を目的とする暴行にあたると認めた原判決は事実を誤認したものというべきで、この誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。

よつてその余の論旨に対する判断を省略し、刑事訴訟法第三九七条第三八二条に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い直ちに判決すべきものとする。

本件公訴事実は起訴状記載のとおりであるが結局これを認める証拠が十分でないから刑事訴訟法第四〇四条、第三三六条により無罪の言渡をすべきものとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長判事 村木友市 判事 渡辺雄 小竹正)

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